このほしのまん中で_text ::: TAKEUCHI HIROMASA :::

[「このほしのまん中で」について About the project ]

「このほしの全てのいのちは、このほしのまん中に生きている」

〜2003年、夏、アンゴラ。内戦を生き抜いた十代との出会いと対話〜

 アフリカ南西部の国、アンゴラ。1975年の独立以来30年近く続いた内戦は、多くの戦争孤児やストリートチルドレンを生み出した。内戦終結間もない2003年夏、そうした子ども達の保護・教育施設である「子どものまち」を訪ねた。
 アフリカ、内戦、戦争孤児などというと、すぐにある特定の典型的なイメージが連想されがちではないだろうか。しかし、そのイメージはひどく観念的かつ匿名的で、そこからは人格と尊厳を備えた個々人の存在が浮かび上がってこない。他者への想像力を働かせるスイッチが入らない。
 この取材で僕は「子どものまち」に生きる彼らを、内戦の傷跡をレポートするための材料としてではなく、今まさに僕たちと同時代を生きている一個の個人として捉え、ポートレイトとインタビューによって記録した。


このほしのまん中で
(写真集前文より抜粋)

  ---このほしは無数のささやかな中心で満たされている

 私たちは普通、世界の中心はどこかと考える時、唯一の中心は決められないとしても、ニューヨークやパリ、あるいは東京やロンドンなどといった場所を連想します。そうしたイメージの裏側には、中心から遠く離れた辺境のイメージがあります。

 しかし発想を変えて、このほし(地球)の中心はどこかと考え、地球のフォルムを球体というよりもむしろ、生命が育まれている地表に注目して「球面」ととらえるならばどうなるでしょうか。

 どこに点を打ってもそこが中心といえます。

 球面というフォルムはささやかな無数の中心で満たされているのです。この事実は、世界中の全ての人間は等しくこのほしのまん中で生きているのだという視点を与えてくれます。

 しかしながら現実の世界では、東京やニューヨークが世界の中心を謳歌する一方で、無数の土地が取るに足らぬ辺境として打ち捨てられています。そこに生きる人々もまた然りです。
 9・11の犠牲者に世界中から哀悼の意が寄せられた一方で、内戦や飢饉によるアフリカの子どもの死は「悲しいけれど仕方のないこと」で片付けられがちです。アメリカの対イラク政策への非難の声は高まってはいますが、私たちは無意識の内にイラクの市井の人々の命を自分たちのそれよりもやや安いものとして受け止めているように思えます。そして、スーダンのダルフール地方で今まさに行われている大規模な暴力は、まさに遠い世界の話でしょう。

 その一方で、全ての人は等しく不可侵の人権を持つという理念も、広く共有されているように思われます。これはどういう事なのでしょうか。人々は理想と現実の割り切りを当然のことと考えているのでしょうか。「現実は現実、理想は理想よ」。そういう事なのでしょうか。

  ---私たちの持つ他者への想像力の性質と限界

 僕はこう考えています。人は、他者を一個人として認識できない限りは、その他者に対して想像力を働かせられないのです。

 例えば私たちは、新聞の国際面で遠いアフリカの国の悲劇を知っても、大して悲しくありません。そこで生きる個人を、ただの一人も知らないからです。その一方で、私たちの9・11に対する悲しみと衝撃は、とても深いものでした。これは、私たちが多くのアメリカ人を個人として知っていた、あるいは少なくともイメージできたからではないでしょうか。
 地理的距離は関係ありません。他者を自分と同じ、人格を持った個人として意識できるかが問題なのです。
 かつてスターリンは「一人の死は悲劇だが、一〇〇万の死は統計に過ぎない」と言い放ちましたが、これは彼個人の残虐さを示すと言うよりは、私たちの持つ想像力の性質と限界を鋭く指摘した言葉と言えるでしょう。

  ---アンゴラの「こどものまち」

 「このほしのまん中で」は、こうした現状を乗り越え、この世界に生きる全ての人間が、それぞれこのほしのまん中に生きるかけがえのない個人であることを確かめていきたいと始められたプロジェクトです。世界の様々な場所や境遇に生きる十代の若者達を、共通の問いかけによるインタビューとポートレートによって取材し、その個人としての存在に焦点をあてていきます。

 このプロジェクトの最初の取材地として2003年7月~8月にかけて訪れたのが、アフリカ南部のアンゴラにある、戦争孤児やストリートチルドレンの保護・教育施設「子どものまち(Children’s Town)」でした。
 1975年の独立以来、2002年まで27年間にわたり続いたアンゴラ内戦は、子どもたちにも大きな犠牲を強いました。18才までの子どもの1.3%が両親を失い、10人に1人が片親を亡くしています。少年兵の数は9000人以上確認されており、小学校を修了する子どもは二人に一人に留まっています。
 「子どものまち」は、デンマークのNGO、ADPP(英語名DAPP: Development Aid from People to People)が運営する施設です。内戦で親を亡くすなど困難な状況にある十代の子どもたちに、安定した生活、基礎教育、職業訓練などを保障し、彼らが将来、社会で自立して生きていく力を身につけさせる事を目的としています。首都ルアンダの北東60kmに位置するベンゴ州の州都カシト(Caxito)と、中部のアンゴラ第二の都市ウアンボ(Huambo)の近郊にあり、訪問した当時、それぞれに約50人の十代の子どもたちが寮生活をして暮らしていました。近隣地域からも通学生がカシト校で250人、ウアンボ校で700人、施設内の1~8学年までの学校に通っています。取材当時、カシト校の校長(プロジェクトリーダー)を、日本人の稲田菜穂子さんが務めていました(2004年7月任期終了)。

 一般に「内戦下のアフリカの子ども」と聞いて連想されるイメージとはどんなものでしょうか? 貧困、戦争、飢餓にうちひしがれた姿?あるいはそんな状況にも関わらず逞しく生きる姿でしょうか?
 しかし、そうしたイメージはひどく観念的で匿名的であるように思えます。そこからは具体的な「個人」の存在が浮かび上がってきません。
 このプロジェクトで僕は「子どものまち」に生きる彼らを、今まさに私たちと同時代を生きている一人ひとりの個人として捉え、ポートレートとインタビューによる取材で記録しました。
 内戦の傷跡や現在のアンゴラの全体像を僕の視点で分析しレポートする事は全く目的ではありません。そこで生まれ、育ち、これから成人して生きて行こうとしている個々人、例えばジョゼナンドやアドリアーノやセウミラが、このほしで、私たちが生きているその同じ時間に、それぞれの人生を生きながら笑い、怒り、喜び、考え、恐れ、愛し、愛されているその姿。その存在を分析や評論や要約ぬきで、そのまま記録し伝える事こそが目的です。
 独立した人格と個性を備えた個人としての彼らに出会い、彼らの姿と言葉に向き合う。そうしてこそ人間対人間の対等な関係に基づいた、他者への想像力が発揮されうるのではないか、と考えています。

 「このほしの全てのいのちは、このほしのまん中に生きている。」

 この作品が、それを確認する一つの機会になることを願っています。

[ 撮影ノート Reportage ]

 アンゴラの「子どものまち」
  (雑誌「アフリカ」2004年8-9月号より転載)

magazineAFRICA.jpg 2003年、夏。南部アフリカのアンゴラにある、戦争孤児やストリートチルドレンの保護・教育施設「子どものまち(Children's Town)」を訪ねた。
 1975年の独立以来2002年まで、27年間にわたり内戦が続いたアンゴラでは、子どもたちにも大きな犠牲が強いられた。18才までの子どもの1.3%が両親を失い、10人に一人が片親を亡くしている。少年兵の数は9000人以上確認されており、小学校を修了する子どもは二人に一人に留まっている。
 「子どものまち」は、デンマークのNGO、ADPP(英語名DAPP: Development Aid from People to People)が運営する施設である。内戦で親を亡くすなど困難な状況にある十代の子どもたちに、安定した生活、基礎教育、職業訓練などを保障し、将来自立して社会で生きていく事ができるようにする事を目的としている。首都ルアンダの北東60kmに位置するベンゴ州の州都カシト(Caxito)と、中部のアンゴラ第二の都市ウアンボ(Huambo)にあり、それぞれに約50人の十代の子どもたちが寮生活をして暮らしている。近隣地域からも通学生がカシト校で250人、ウアンボ校で700人、施設内の1〜8学年までの学校に通う。
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 「子どものまち」を取材する機会を得た今回、ポートレートやスナップの撮影と並行し、生徒一人ひとりにインタビューを行った。これは本当に素晴らしい体験だった。個人が自分を語る言葉には独特の重さと温度があった。一ヶ月半の滞在中、言葉を交わすほどに、彼らがアンゴラの戦争孤児という括り以前に、私たちと同様に当たり前の幸福を求めて今を生きる一人の人間である事に気付かされた。以下では、彼らの発言を中心に書き進めていこう。


----日々の暮らしの中で一番幸せを感じるのはどんな時?
 「勉強して、常に前に進んでいる時が一番幸せです」(ゼ・フライ 16才・5年生)

 「やっぱり一番幸せなのは勉強している時です。勉強する事で自分の明日っていうのが開けるし、なりたいものにもなれるからです」(ダミアン 13才・2年生)

 「学校に行けるっていう事です。学校に行けて勉強ができるっていう事。子どものまちにいる事で大事なのは生活が楽しいかとかより、沢山勉強するって事ですから。ここではやりたいだけ自由に勉強できるんです」(ラシェル 16才・6年生)

 インタビューに取りかかって、すぐに面喰らったのがこうした発言の数々だった。アンゴラでは学校に通える事は当たり前の事ではないという事は承知していた。しかし、この質問に対する十代の子どもの答えとしては、あまりに優等生的ではないか。私が外国人だという事で、かなり背伸びをして答えているのだろう、最初はそう考えた。しかし、さらにインタビューを重ねるうちに、彼らの言葉は、純粋に心からのものなのだと気付かされた。多くの子が次の質問に対しても、勉強のことですと答えるのだ。

CCC1403_note.jpg---いま一番不安を感じているのはどんな事?
 「やっぱり勉強の事です。勉強が好きなんです。勉強すればきっと未来が開けます。だから不安っていうより、それで頭が一杯っていうか」(ラシェル)

 「だって教育がなかったら、頭の中が空っぽで、市場で麻袋を担ぐ荷曳き人夫くらいにしかなれないじゃないですか。なりたいものになりたいと思う事すらできなくなって、自分の未来がロクでもないようなものになってしまいます。だから勉強の事が一番気掛かりです」(ディスティーノ 12才・3年生)

NGOの施設で就学と安定した生活を保障されている彼らは、かなり恵まれている部類に入るだろう。しかしここに辿り着くまでの間、彼らの多くは路上生活をしたり、あちこちの施設を転々として、学校に通う事はおろか、明日の暮らしさえ不確かな毎日を過ごしてきた。そして、18才になったら皆ここからたった一人で社会に出ていかなければならない。職を得るための公平な機会など望みようもないアンゴラで、コネも、頼るべき親族もいない、まさに独りぼっちの孤児である彼らにとって、頼りにできるのは自分の身体と頭だけだ。
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 「こういう施設にいられるって事は、それだけ今後にもチャンスがあるっていう事だから。だから、いま僕は十分幸せです」(ミト 16才・6年生)

 学校に通えるという事は正に「将来へのチャンス」なのだ。途上国の子が学校に通えて嬉しそうな様子を伝えるレポートを、これまで日本のテレビなどでも何度も見てきた自分だが、学校に通うという事が疑問の余地もないほどに当然という社会に育った自分は、彼らの「嬉しさ」がいかに切実で真剣であるのかを初めて本当に理解させられた。
 内戦の終結、すなわち平和も、勉強する事への意欲を後押ししている。戦時中、子どもたちを学校から遠ざけていたのは、教員や学校の不足も然る事ながら、将来の事を考えられないという社会状況だった。教育は将来への大きな投資ではあるが、明日の食事を確保する事には何の役にも立たないものだ。独立以来の内戦、結ばれては破られる停戦協定の中、将来の夢を語る事がまさに夢のような絵空事でしかありえなかった時代、多くの子どもが学校よりもその日の暮らしの為に働く事を求められた。
 しかし、平和が訪れた今、「将来」は夢想するものから現実の目標になったのだ。教室には様々な年令の子どもたちが、内戦で失った時間を取り戻すかのように一緒に勉強していた。16才の小学6年生、12才の3年生なんてざらだ。だけど、誰もそれを恥ずかしがったりする様子はない。

 「もう戦争はないですよ。戦争の事はこれ以上考える必要ありません。勉強の事と自分の将来の事や仕事の事を考えて、それ以外の事に気を取られることはもうないんです」(ネリート 14才・6年生)

 長い戦乱の時代が終わり、待ち望んだ平和を手に入れたアンゴラ。その平和をどう根付かせ、育てていくかは、間もなく社会に出て自らの未来を切り拓いていく彼らの肩にもかかっている。

 ---あなたはどんな大人になりたいですか?
 「これから暮らしていくそれぞれの場所で、誰に対しても礼儀正しく接する、そういう大人になりたいです。人を敬う心を持って、人と調和をはかっていかないといけないと思います」(マン・フェーラ 17才・卒業生)

 「社会のみんなの役にたつような仕事のできる、いい人間になりたいです。世の中を乱すような人ではなくて、いい世の中を作ることの役に立つような人間です。何年も何年も続いた戦争で傷ついてしまった僕らの国を、新しく作っていくことができるようにです。そういう大人に将来なりたいです」(アドリアーノ 17才・6年生)


CCH0403-0725_note.jpg 彼らの未来への意志がやがて花開き、アンゴラの新しい時代を鮮やかに彩っていくことを願い、見守り、そして必要な時には手を差し伸べていきたいと思う。今日も彼らが確実にこの同じ地球の上に生きている事は、私たちにとっても大きな希望なのではないだろうか。









[ セウミラの言葉 Interview with Ceumira ]

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 セウミラの言葉

写真集「このほしのまん中で」には、一人ひとりのポートレートに、それぞれへのインタビューを添えて収録しました。ここでは数人分を抜粋し、短く編集して掲載します。


Ceumira_IV.jpg---お名前を教えてください
私の名前はアルベルティーナ・デ・ファティマ・アントニオ・ダ・クルスです。

---それで皆からはセウミラって呼ばれてるのね?
セウミラっていうのは、家でとか友だちにそう呼ばれてるんです。学校では、アルベルティーナ・デ・ファティマ・アントニオ・ダ・クルスです。


---どうして「子どものまち」に来る事になったの?
ルアンダで学校に通えなかったんです。それで勉強していませんでした。3年生になったときに、その学年の授業時間が夜で、お母さんが夜に学校に通うことにどうしても賛成してくれなかったんです。それでここに来る事になりました。


---最近で一番うれしかった事は何ですか?
学校でいい点を取れている事です。色んな知識を吸収して、たくさんの事を学んでいます。

---じゃあ嫌だった事は?
最近だと…、罰でやらされた仕事の事です。

---罰って?
先生からの罰でクラスの子たちと一緒に薪拾いに行かされたんです


---今いちばん力を入れて取り組んでいる事はありますか?
あります。ジャーナリストになりたいんです。

---それはいい夢だね
でしょ!

---その為に勉強も頑張ってるんだ?
そうです。それを目指して。

---初めてその夢をもったのはいつのこと?
初めてジャーナリストになりたいっていう夢を持ったのは、テレビの報道番組を見た時です。そのニュースに女の人のジャーナリストが出ていて、どうやって物事をうまく話すか、うまく伝えるかっていう事を喋ってたんです。それを見て、これを自分の夢にしようって決めました。

---10年後の自分の姿を想像できますか?
ジャーナリストになっています。

---あなたにとってジャーナリストってどういう仕事?
私にとってジャーナリストになるっていう事は、外国に向けてメッセージを発する人になるっていう事です。例えば、「アンゴラに今日、平和が訪れました」って伝えるんです。


---これまでで最も尊敬できた大人について教えてください。
うーん…、誰でもみんな尊敬しています。

---その中で意一番を決めるとしたら?
両親です。

---あなたはどういう大人になりたいですか?
責任ある大人になりたいです。自分の生き方を自分で決められる大人です。そして自分で確かな未来を掴むんです。

---将来自分の家族はもちたい?
家族は持ちたいです。私の家族はみんな一緒だけど、何人かのおじさんが行方不明なんです。そのおじさんたちとは一緒に暮らした事もありません。どこにいるのかも分かりません。
 祖母はおじさんたちは元気だよって言ってましたけど、行方不明なんです。だから自分の家族を持つ時は、おじさんたちも含めてみんな一緒に暮らせる家族にしたいです。


---あなたが今いちばん不安を感じるのはどんな時ですか?
不安っていうか、もっといっぱい勉強して、学校で習った事を妹たちにも教えてあげたいです。勉強するって事はそんなに簡単な事ではないので。


---あなたが一番しあわせを感じるのは、どんな時ですか?
いろんな事をするのが好きです。働いたり、勉強したり、歌ったり踊ったり、色んな事です。そういう事をしている時がしあわせです。

(インタビュー : 2003年7月16日)

[ マン・フェーラの言葉 Interview with Man-Ferra ]

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 マン・フェーラの言葉

写真集「このほしのまん中で」には、一人ひとりのポートレートに、それぞれへのインタビューを添えて収録しました。ここでは数人分を抜粋し、短く編集して掲載します。


ManFerra_IV.jpg---お名前を教えてください
フェラン・ジョアン・ダ・コスタです。みんなにはマン・フェーラって呼ばれています。


---今、ご両親は?
父は病気で死にました。いつだったかはもう覚えてませんね。小さい時のことだから。

---お母さんは?
母ですか? 母はいません。

---お母さんも亡くなってるんだ?
いえ、生きてます。でも、アンゴラにいないんです。

---じゃあ、どこにいるの?
コンゴ民主共和国にいます。

---そこに働きに行ってるってこと?
そうじゃなくて、戦争で非難したんですよ。

---今もコンゴにいるの?
はい。今もです。

---それで、お母さんとは連絡は取れてるの?
いえ、別に。

---え? じゃあ居場所はちゃんと知ってんの?
細かくどこの場所にいるかって事は知らないですよ。俺が知ってるのは戦争のせいでコンゴに逃げたって事だけです。

---でも、もう戦争は終わってるわけでしょ。もしかしたらもうこっちに戻って来てるかもとか思わない?
そうかもしれないですね。もう戻ってるかもしれない。でもそんな事わからないでしょ。

---でも、もう平和なんだから、なんか探す手段ってあるんじゃないの?
戻って来てるかどうか確かめようって事ですか? でも、そんなのどうしたらいいか分かんないですよ。

---でも今、政府とかラジオとかテレビで人探しのキャンペーンとかすごいやってるじゃない
そういうのをやろうとは思わないですね。自分の生活がしっかりしない限り、探すなんて出来ないですよ。

---え? ちょっと意味が分かんないんだけど?
ですからね、家族はコンゴで森の中の難民キャンプで暮らしてる訳じゃないですか。貧しい中で。そこに、例えばもし俺が自分の生活基盤も何もない中で家族を捜して、再会するとしますよね。向こうにも何も生活基盤がないわけでしょ。それじゃあ俺も家族も最悪じゃないですか。

---でもさぁ、お母さんと離ればなれな限り、君にとっては戦争は終わった事にならないんじゃないの?
ここにはお母さんを探して泣いてる奴なんていないですよ。ここにこうしていられるのはいい事ですよ。それに、探しに行こうと思えば、いつでも行けるんです。
 俺はもう卒業生でしょ。進路も決まっています。それでルアンダかカシトで仕事を持って、家も持って、そうなってから生まれ故郷のウイジに戻って家族を捜しても遅くはないんです。故郷の街の事は全然忘れてないですし。
 兄に、今せっかく勉強できるチャンスがあるんだから、余計な事は考えないで勉強に専念しろって言われてるんですよ。


----最近で一番うれしかった事はなんですか?
「子どものまち」をちゃんと卒業できた事が、今までで一番うれしかった事です。
 もっと最近だったら、日曜のイベントでやったサッカーの試合だね。試合をやって勝ったって事。昨日は負けたけど、今日の試合は2-0で勝ちました。

---じゃあ嫌だった事は?
嫌だったし、今でも嫌なのはやっぱり戦争ですよね。戦争や紛争の中では人は思い通りに生きられない。今はでも、戦争も終わって、いい事です。


---今一番力を入れて取り組んでいる事はありますか?
歌手になりたいんです。ラップの歌手。

---10年後の自分の姿を想像できますか? どうなっていたいとか
将来は世間でちょっとは知られたような人間になりたいですね。みんなに対して衣食住とか必要なものを、ちゃんとオーガナイズしてあげられるような人間です。

---仕事は何がしたいの?
歌手以外には、建設関係の親方にもなりたいと思っています。これから、ここの職業訓練学校の建築のコースに進むんです。


---これまでで最も尊敬できた大人について教えてください
目上の人はみんなですよ。俺より年上で、俺の身近にいる人はみんな尊敬しています。いろいろ相談に乗ってくれて、いろいろ言ってくれる大人には本当に感謝してます。例えば、先生とか校長先生ですよね。それに生徒でも、すごいなって思う奴はいますよ。

---あなたはどういう大人になりたいの?
自分がこれから暮らしていくそれぞれの場所で、誰に対しても礼儀正しく接する、そういう大人になりたいです。人を敬う心を持って、人と調和をはかっていかないといけないと思います。

(インタビュー : 2003年7月5日)

[ アメルソンの言葉 Interview with Amelson ]

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 アメルソンの言葉

写真集「このほしのまん中で」には、一人ひとりのポートレートに、それぞれへのインタビューを添えて収録しました。ここでは数人分を抜粋し、短く編集して掲載します。


Amelson_IV.jpg---お名前を教えてください
マルコス・デ・アルメイダです。

---誰が付けてくれた名前ですか?
母が付けてくれた名前です。

---今お母さんは?
母は病気で死にました。もう亡くなっています。

---お父さんは?
父はフェルデリコ・カモタといいます。

---お父さんはご存命なの?
知りません。僕が生まれた時にはもういなかったそうです。だから生きているのかどうかも知らないんです。

---すごく小さい時に別れたんだね
そうです。赤ん坊の時。父の名前は母が僕に教えてくれたんです。「お前のお父さんはフェルデリコ・カモタっていう名前なんだよ」って。それでこれまでずっとこの名前を忘れないようにしてきたんです。

---「子どものまち」にはいつからいるの?
2000年からです。

---その前はどこにいたの?
姉のところにいました。それで97年に母が死んで、その1ヶ月後にクアンドの施設に預けられたんです。そこでは1年半暮らしました。その後、98年にコジンビ神父の施設に送られて、そこでは2年暮らしました。98年と99年ですね。それで2000年からここで暮らしています。


---最近で一番うれしかった事はなんですか?
最近のことで嬉しかったことですか?
うーん、何だろう? テストかな。学校のテスト。

---へえ、君にとってテストって嬉しいことなんだ?
はい。

---いい点とる自信があるんだね
はい、ありますよ。きっといい点とります。

---僕なんてテストだと憂鬱になっちゃうけど、君にとっては違うんだね
もう全然。憂鬱なんてことはありません。


---今いちばん力を入れて取り組んでいることはありますか?
一番やりたい事ってことですか? それだったら、いつか先生になりたいって思ってます。

---どうして先生になりたいの?
人に授業をするのが好きなんです。自分が教わった事を、また人にも教えてあげたいんです。僕が先生に可愛がってもらったように、自分の生徒にも優しくしてあげたいなって思います。

---いつから先生になろうって思うようになったの?
学校に通い始めたその時からです。1年生の時から。それからずうっと先生になりたいと思っていました。

---いい先生に巡り会ってきたんだね
はい。

---10年後の自分の姿を想像できますか?
なりたいものですか? それは先生です。それ以外には、自分の家を持って、独立したいです。

---独立する?
そうです。自立して、独立したいです。

---それまでには結婚もして?
はい、結婚もして、家庭を築きます。

---子どもは何人くらい欲しい?
5人くらい。


---これまでで最も尊敬できた大人について教えてください
目上の人はみんなです。大人はみんな尊敬しています。

---一番を選ぶとしたら?
一番ですか? 子どもたちだってみんな尊敬していますよ。

---こども? どうしてまた?
なんでって、子どもたちも僕を尊敬してくれるからです。だから僕の方も同じようにします。同じように尊敬しなきゃいけません。
 僕の事をいつも叩こうとするような連中には、なんら尊敬なんてする必要ありません。そんな連中には尊敬される資格はないんです。僕の事を尊重してくれる人に対しては、僕も尊敬する義務があると思います。


---あなたが今いちばん不安を感じるのはどんな事ですか?
今ですか? 今の一番の心配事は、もっと勉強したいっていう事です。

---あなたが一番しあわせを感じるのはどんな時ですか?
働いている時が一番しあわせです。それで自分の自由になるお金が手に入ったらしあわせですね。他の人に頼らないでよくなるし。はい、そうなったら幸せです。

(インタビュー : 2003年8月11日)